「たった一度も希望を持てなかった25年間」の記事と大震災の記憶

投稿日:

 

「冷たい娘抱いて寝た 希望ない」

このYahooニュースのタイトルが衝撃的で、
思わずその記事を読み進めました。

 

記事は、神戸新聞NEXTによるもので、

遺体安置所で冷たくなった娘を抱いて寝た 
たった一度も希望を持てなかった25年間

と題された、とても重たい内容のものでした。

 

阪神・淡路大震災は、
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒に起きました。

 

記事には、震災当時住んでいた芦屋の家で、
家屋全壊により、大学生だった娘さんを亡くされた、
村田延子さんのお話が次のように記されています。

ともに倒壊した家の下敷きになり、
励まし合っていたのが、助かったのは母親だけでした。

延子さんが夫の雅男さん(77)に救助された後、恵子さんが出された。

息をしていないと分かっていても、車いすの姿を想像したり、
「ここで死なせてあげる方が楽かな」と思ったり。
「これまでありがとう」と言えなかった。

その晩、延子さんは遺体安置所で冷たくなった恵子さんを抱いて寝た。

記事はさらに、次のように続きます。

延子さんが脳梗塞で倒れ、雅男さんには前立腺がんが見つかった。

苦しいことに出会う方が楽だった。
恵子の苦しみを少しでも引き受けられると感じたから。
最近は「ごめんね」と謝ることが増えました。

言葉が全く見つかりません。

 

震災当時私が住んでいたところは
神戸からだいぶ離れてはいましたが、
それでも震度4で家族全員が飛び起きました。

 

山陽新幹線はずいぶん運航停止が続きました。
移動ができない不便さを痛感しました。

 

そのずっと後、
阪神淡路大震災の記憶も薄れかけたころ
私は東京勤務になりました。

 

2011年です。
移動の直後に今度は東日本大震災に見舞われます。

 

3月11日の金曜日でした。
東北地方は津波で大きな被害を出しました。

 

私には東北の沿岸に住んでいる遠い親戚がいます。

 

幸い亡くなったりケガをした人はいませんでした。
しかし長年住んできた家を失った親戚はいます。

 

商売をしていた親戚はお店も失いました。

 

津波に襲われ腰までつかりながら
間一髪のところで助けられた親戚もいます。

 

一昨年震災後初めて被災地の一つを訪ねました。

 

何度か訪ねた場所でしたが
景色は一変していました。

 

なにもかもなくなったという感じですが、
それでも整備は進められ
商売を再開しているところも多いと聞きました。

 

元気を取り戻してほしいそう願うばかりです。

 

ところでその日
私は東京のビルの11階にいました。

 

15階建ての古いビルでした。
隣のデスクの仲間と打ち合わせをしていました。

 

15時ちょっと前でしたが、
最初はゆっくりとした揺れで始まりました。

 

地震には慣れていたのでさほど驚きませんでした。

 

すると少しづつ揺れが大きくなってきました。
そしてガーンという音とともに揺れが加速します。

 

それでもまだかなり平静でいられました。

 

しかしどんどん揺れが激しくなり
身の危険を感じ始めました。

 

周りがみんな机の下に潜り込みだしました。

 

私もそれに倣って机の下に。

 

その2週間くらい前だったと思います。

 

ニュージーランドで大地震が発生し、
建物の倒壊などにより
日本からの留学生がたくさん亡くなっていたのです。

 

中にはがれきの下敷きになって
長時間耐えていた方もいました。

 

机の下に潜り込んだ瞬間
まさにそれを思いだしたのです。

 

ものすごく長い時間に感じました。

 

揺れはなかなか治まらず
その時には初めて「死」も覚悟した
ように思います。

 

なにせ古いビルです。
倒壊してもおかしくないくらいの揺れでした。

 

がれきの下で苦しみながら
救助を待つくらいなら
いっそのこと・・・
と思ってしまったほどです。

 

私はとても体が硬いので
窮屈な体勢で長時間耐えられるとは思えません。

 

後で聞いて分かったのですが
私の住んでいたアパートもかなり揺れたそうです。

 

家内は隣の住人と一緒に外に飛び出し
集まった人たちで一緒にラジオを聞いて
情報を収集したそうです。

 

タワーマンションで
20階くらいに住んでいる知人によると
揺れはゆったりとした大きなもので
カップのコーヒーさえ波立たなかった
と言います。

 

免震構造が威力を発揮したようです。

 

それでもエレベータが使えないのには
とても苦労したといいます。

 

20階までは大変ですね。
40階、50階の人たちはどうだったのでしょうか。

 

そして11階にいた私は何度も余震に震え上がりながら
帰宅の時間が来ます。

 

そのころになると
少しづつ都心の被害情報も得られました。
しかし信じるに足るようなものは得られません。

 

最終的には個人の判断になります。
・電車の復旧を待って帰るのか
・歩いて帰るのか
・会社に泊まり込むのか
です。

 

私は歩いて帰れました。
わりと近いところに住んでいたのです。

 

でも同僚の中には
8時間かけて帰った人もいます。

 

本当に大変だったようです。
普段歩いていない人が
8時間歩くというのは
とても危険な行為です。

 

あくる日が土曜日だったので
そんな決断ができたのかもしれません。

 

会社に泊まり込んだ人も半数以上いました。
しかし泊まり込む決断が遅かったのです。

 

食料を求めて買い出しに出かけたときには
ほぼ何もかも売り切れで
菓子類しか残っていなかったそうです。

 

帰宅するのも残るのも
どちらを選んでも大変でした。

 

特に家族の安否がわからなかった人は
かわいそうでした。

 

現代社会はどんどん便利になってきています。
都会程その便利さを享受できます。

 

田舎者の私が少しの期間東京に住んで感じました。

 

東京は安全です。
清潔です。
そしていろんな刺激があります。

 

いたるところで催しが開かれます。

〇〇祭り
〇〇市
〇〇大会
〇〇展示会

なども盛んです。

 

少し歩けば地下鉄やバスなどの
公共機関が充実しています。

 

お年寄りはそれらを無料で利用できたりもします。

 

お金に余裕があればもっと
様々なエンターテイメントが楽しめます。

 

こんな環境はめったにありません。

 

しかし都市構造はいたって脆弱です。

 

ちょっと雪が降る
大雨になる
地震が来る
などで交通その他がマヒしてしまいます。

 

帰宅難民リスクも発生します。

 

便利さの裏にある脆さについても
十分考えておくことが大事だと思います。

 

阪神大震災からの25年、
私もいろんな体験をしてきました。

 

辛いこともありましたが、
楽しい事もたくさんありました。

 

しかしこの間、

「たった一度も希望を持てなかった」

という方もいたのだ、と思うと胸がつまります。

 

地震 雷 火事 ??
台風及び地震で被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。

新潟県で震度6強 令和において取り組むべき個人の課題

 

 

ハヤトへのお問い合わせはこちらからどうぞ。
(お問い合わせ・メッセージからでも結構です)
↓  ↓  ↓  ↓  ↓
hayato_fukugyou@yahoo.co.jp

※お問合せメールを頂いた際には、順次返信メールを遅らせて頂きますが、
返信メールが迷惑メールに振り分けられる場合がありますので、
ご確認をお願いします。

-・ハヤトの 副業と日記

Copyright© ハヤトの副業シニア新ブログ , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER.